近況のご報告

「日韓ちゃんぽん」なる拙いブログを覗きに来てくださっていた皆様、しばらく記事をアップできず申し訳ございませんでした。

そこでいったん近況をご報告しようと思います。


結論から先に申し上げますと、今年はあまりガサガサできておりません。
その理由を、本文のほうに書こうと思います。


「日韓ちゃんぽん」は、今後はさぼらず、そこそこの頻度で記事をアップしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。ただもう11月になってしまい、朝の気温が氷点下となり、魚をとりに行くこともままならぬ季節となってしまいましたので、来年の春が明けるまでは、今年ちょっとだけ行ったガサガサ記事と、過去の旧日韓ちゃんぽんでアップしていた記事をぼちぼちアップするといった状況になるかと思います。



以下、本文です。大変お見苦しい内容がありますので、そういうのがお好きでない方はこの記事を飛ばしてください。




今年の8月に、우리 집사람が霊界へと旅立ちました。

2012年の11月、毎度のように何気なく国民健康保険の健康診断を受けたときに、家内の胃に癌があることがわかりました。
次男がお世話になったソウルの大きな病院で、より詳細に診断をしたところ、胃がんの二期と診断されました。
そしてその12月末に手術。その際にがん細胞が胃のリンパ節にまで及んでいたとのことで、胃と卵巣のひとつを全摘出しました。診断医は三期と言いました。

その後、合計8回にわたる抗癌剤の投与を行い、そして約3か月おきにCTなどを撮って検査するという日々が続きました。
その当時、 抗癌剤も最初は全額自己負担でしたが、韓国の大統領が変わってすぐにこれも保険適用となるなどの恩恵を受けながら、おかげさまで当分の間は特に何事もなく過ごすことができました。
2014年11月末、いつも通りCTを撮ったところ、がんの転移が認められました。腹膜播種というやつです。場所は大腸の近くと、ひとつだけ残っている卵巣にも転移している可能性が高いということでした。
かくして再び抗癌治療が始まることとなりました。

このあたりから、休日はほとんどが우리 집사람の治療に費やされることとなり、フィールドに出てガサガサしたり、その内容をブログ記事にまとめたりする時間がなくなっていきました。魚とりに出かけられないのは残念ですが、休日に우리 집사람と出かけて過ごすというのは、それはそれでとても良いものでした。ただ、その原因を考えると、手放しで喜べるというものではありませんでしたが。

話を元に戻します。さて、まずは今最先端の治療法である「分子標的治療」を模索することになりましたが、これが受けられる確率は15%ほどというものでした。アメリカまで우리 집사람の細胞サンプルが行きましたが、結局分子標的治療にマッチしなかったと伝えられ、通常の抗癌剤による薬物治療を行っていくことになりました。2日連続で点滴注射をし、2週間家で別な薬を飲みながら過ごし、また2日連続で点滴注射……という生活を続けました。この抗がん剤は髪の毛が抜けないと言われていましたが、우리 집사람の髪の毛は1回櫛でとかせば櫛の中に髪の毛が相当残るくらいに髪の毛が抜けてきました。

2015年4月、CTを撮影した際に残った卵巣が肥大しているのが写し出されました。これを機に、抗がん剤が変更されました。薬の名前はドセタキセル。細胞分裂を阻害する薬ということですが、卵巣がんに良く使われる薬との事でした。
さて、ドセタキセルを調べていただければ分かりますが、この薬は脱毛する薬なのです。
ドセタキセルを初めて注射した日、家内は病院内の美容室にて髪を剃りました。家内は帽子なしに外を歩き回れない姿となりました。

5月末にCTを撮たところ、卵巣がさらに肥大していることが分かりました。ドセタキセルは卵巣に良く入る薬なはずなのに、우리 집사람には全然入らなかったことになります。主治医は「そういう場合がある」と言いましたが、本当のところはどうなのかちゃんと聞くことができていません。
実はここのところ우리 집사람は、「緊張すると尿意を催す」と言い、病院に行くとしばしばトイレに通っていたのですが、それはストレス性のものというよりは、実際に卵巣が膀胱を圧迫していたものと分かりました。

そして、6月、世間ではMERSが騒がれている最中に卵巣と子宮の摘出手術をしました。
MERSウイルスが騒がれている中、人の少なくなった病院は実に快適でした。医療都市と呼べるくらい、入院した病院は建物が大きいので、MERSウイルス保菌者がERに来たとしても、ERから病室まで200m以上離れていますし、そう出歩かないので問題はありませんでした。
手術は腹腔鏡を使って行われましたが、難しい手術だったようです。우리 집사람の場合、普通の人より1日遅れてガスが出ました。思えばこの時、内臓への影響がどの程度あったのか調べるべきだったのかもしれません。

術後の抗癌治療ですが、医者のほうから「臨床試験」を提案されました。何の薬かと構えていたら、「ニボルマブ」といいます。 もしかしたらご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「ニボルマブ」は最近のガン治療の特効薬として注目されている薬で、メラノーマなどにおいて認可されています。しかしスキルス胃ガンについてはデータが乏しいために認可されていないのです。 この薬のことはNHKでやっていたので、自分は知っていました。他の抗ガン剤と比べて副作用が非常に軽いことも、普通では手が出せないくらい高価(1回の治療で約100万円)なことも知っていました。それを使わせてもらえるということで、我々は飛びつきました。神様が道を開いてくださった、と思いました。

臨床試験中は抗ガン剤を打った後の脱力感や脱毛といった副作用がほとんどありませんでした。普通の人よりも遅いですが、髪もまた伸び始めました。우리 집사람としても非常に快適だったようです。ただし最初のうちは。

さて、だんだんと우리 집사람は頻繁に下痢をするようになりました。食べたり飲んだりしたらすぐに下痢をしてしまうのです。しかも、少量の下痢を頻繁に、という感じです。

下痢をし続けると、人の免疫力の70%を支えるという腸にダメージがあるわけで、免疫力が下がる。それで우리 집사람は下痢を抑える薬を常用するようになりました。しかしながら、効果は多少良いという程度でした。一日に何度もトイレに行って、1回あたり直径1センチくらい、長させいぜい3センチくらいの便を出す、といった状況になりました。

予想がつくと思いますが、大腸に宿便がたまりだしました。おなかを手で触れば分かるほどに下降結腸が固くなっていました。우리 집사람は苦しみだしました。食べなければ便は出ませんから楽なのですが、体力も体重もなくなります。食べればわずかにしか出ない下痢をするために1日に20回以上もトイレに行かねばなりません。

臨床試験のために、普通の人よりも高い頻度でCTを撮っていたのですが、最新のCTでは、S状結腸と脾湾曲部の2か所に「通りが悪くなっている場所」があり、また肛門周辺も「肉が厚くなっている」と判断されました。特に肛門周辺については、「腹膜播種が肛門周辺にたくさんついていると判断される」と言われました。

そして、薬効の見られなかったニボルマブの臨床試験を中止、11月末にストーマをつくりました。
大腸の詰まっていないところでストーマを作るのですが、外科医にとってはいろんな意味で本当にやりたくない手術だったに違いありません。語る言葉の端々にその思いが隠れていました。そして手術は行われたのですが、やはり相当難しかったのでしょう。普通ストーマというと、腸の組織が皮膚からポッコリ出るものなのですが、우리 집사람のストーマは陥没していました。

ストーマをつくった後、白金系の抗癌剤を使いましたが、この副作用が우리 집사람にとっては重篤で、あっという間に体力を削られました。結局2回の投薬の後、ERを通して入院。でも、そこでは体力が回復しなかったのです。
大きな病院にありがちの、他に入院しなければならない患者がいるという理由で、우리 집사람は退院を余儀なくされました。そこで、ソウルの大きな病院ではなく、我々の家からほど近い、景色の良いところにある病院に入院しました。
ソウルの病院では、우리 집사람の体力低下を抗癌剤の副採用としてしか見ず、点滴を打つくらいのことしかしてくれませんでしたが、こちらの病院では甲状腺の機能低下など、病状を多角的に分析してくれ、우리 집사람は嘘のように元気を取り戻しました。


2016年1月頭、食べたものがストーマから出ず、口から出るようになりました。우리 집사람はまたもや入院することになりました。そこから210日間、우리 집사람はその景色の良いところにある病院で過ごし、そして霊界に旅立ったのです。

その210日間は、酷い言い方をすれば、癌に侵された人間が生物としての死を迎えるプロセスそのものでした。
しかし、その過程で、いくつもの小さな奇跡が起きました。本当に小さなことなのですが、そして癌の病気の進行についてよく御存知の方は「よくあること」と言われるかもしれませんが、それでも我々にとっては奇跡のようなことだったのです。

1月。体力低下に本人の気力も尽きかけていたところ、「噛みさえすれば顎の筋肉だけでなく全身の筋肉が回復する」という記事を見出しました。ほぼ時を同じくして、毎日のように行っている日本とのビデオチャットにて、同じ内容がわしの父の口から伝えられました。これはと思い、우리 집사람に話して実践してもらったところ本当に体力回復。何よりも우리 집사람に「まだ自分にもできることがあるのだ」という希望を与えてくれました。

2月。あまりにも嘔吐が激しく、トイレに入り浸りになるので大部屋の他の方がトイレを使用できなくなってしまうため、個室へと移動。口から内臓にチューブを入れ、内臓に入ったものがチューブを通して出るようにしたところ、状態が劇的に緩和されました。しかし程なくして우리 집사람は水しか飲めなくなり、すべての栄養を点滴で賄うようになりました。

3月。日本からわしの両親が見舞いにやってきたのを契機に、次男(三番目の子であり末っ子)が日本行きを決意。あれよこれよという間に「日韓ちゃんぽん計画2016」発動。4月から日本の小学校で勉強することに。
なお「日韓ちゃんぽん計画2011」にて娘(二番目の子)が日本の小学校で勉強することになった際、3月11日に東日本大震災に見舞われたわけですが、「日韓ちゃんぽん計画2016」においても4月14日に熊本地震が。

4月。病院から「保護者がついていてください」と通達。以前書いたかどうかわかりませんが、韓国の病院は人が一人入院すると、その家族が「保護者」として一緒に寝泊まりし、入院患者の身の回りの世話をします。医者や看護師は医療行為にのみ専念するという訳です。こんな「保護者」制度をやっているのは世界中でも韓国と台湾くらいだということですが、わしも仕事のある身、病院と話し合い、病院の人手の足りない時間帯に保護者がいるようにしました。平日夜はわしが、土日は長男(兄弟1番目)と娘が交代で保護者としてつくという生活が始まりました。

5月。平日の日中も保護者が必要となり、困っていたところ、教会の婦人たちが交代で우리 집사람のところに来てくれることに。本当に有り難い。ただ、もうこの頃から우리 집사람は痛みゆえに意識のある時は常に声が漏れている状態でしたので、教会の婦人たちは心痛い思いをしていたに違いありません。また尿失禁が頻繁になり、尿チューブも入れることになりました。

6月。教会の婦人たちも各自の仕事などで限界が来てしまい、「看病師」を雇うことに。食事代込み・泊まり込みで1日9万ウォンというのは大変有り難いが、それでも30日続けば270万ウォンとなってしまうので、なんとか土日は家族で泊まり込み、平日だけお願いすることにしました。
6月18日、娘が見ている前で우리 집사람が泡を吹いて倒れました。数日前から血圧が高い日が続いていたところ、脳圧が高くなって痙攣を起こし、CTを撮った結果ごくごく僅かながら、くも膜下出血もあったようです。慌てて駆け付けた自分の見ている前でも泡を吹きましたが、その時の우리 집사람の表情は、苦しみにあがく表情ではなく、明らかに脳に障害が出た時の表情でした。
少しして容体は落ち着いたものの、우리 집사람の記憶が飛んだことが判明しました。自分はこの時ほど涙を流し続けたことがありません。

7月。なんと、우리 집사람の記憶が少しずつ戻ってきました。当初は「自分が結婚したことすら覚えてなかった」と言っていた우리 집사람が、「家のベランダにある棚に、깻잎장아찌(ッケンイプジャンアッチ:ゴマの葉の醤油漬け)があるから、それを看病師さんに分けてあげて。ご飯を食べるときに一緒に食べられるように」と、2015年のことまで思い出して話すように。
しかし腹水がたまるのが早くなり、7月下旬は1週間に1回を待てないくらいになりました。

そして8月。意識のない時間が長くなり、呼吸を見ていると自然な感じに呼吸をしているようには見えなくなりました。


そしてその日、わが家では業者を呼んで家じゅうの壁紙や장판(ジャンパン:床に敷くそこそこ分厚いマット)の張替えをすることになっている日でした。業者が来て作業を始めると同時に、病院から「容態がよくないので家族の人は来てください」との連絡が来ました。しかし業者の大人たちが家に来て働いているところを、子供たちを残して自分だけ病院に行くわけにはいきません。ソウルに住む우리 집사람の弟と妹に、病院に行ってくれないかと頼み、娘にバスを使って病院に行くよう指示しました。力仕事がある関係で、長男は家に残しました。長男も娘も土日にはバスを使って病院に行き来していたので、特に問題なく行けるはずでした。
ところが、娘はその病院まで行くバスを、途中までしか行かないと勘違いし、乗り過ごしてしまいました。一日に5往復くらいしかないので、次のバスはもう夕方になります。泣きながら帰ってきた娘を見ながら、義弟と義妹に連絡。思った通りまだ道の途中だったので、いったん我が家に寄ってから娘を連れて病院に行ってほしい旨を伝えました。
ほどなく義弟と義妹が到着。娘を連れて病院へ。病院に着いたところで義弟から「何か手伝うことがないか」と電話がありました。思えばその時に「自分と交代で家を見てほしい」と言っていれば良かったのかもしれません。やがて家の中で장판の張替えのために家具の移動で一番忙しい時に、病院から電話がありました。「どうしても今すぐ来てほしい」と。あと2時間ほどで業者の作業が終了しそうなので、それを待ってはダメかと問いましたが、どうしても今でないとだめだ、ということなので、支度をして出かけました。病院にいる義弟には、申し訳ないけれども自分と入れ替わる形で我が家に来て最後の監督をしてほしい旨を伝え、長男には作業終了時に業者に工賃を渡すようにと、長男が今まで手にしたことのない金額の現金を渡しました。

病院まであと4分というところで、義妹から電話が来ました。「今どこ?」「もうすぐ着く」「とにかく早く来て」という会話をしたのを記憶しています。

そして病院に到着し、우리 집사람が入院している階に到着すると、主治医が待ち構えていました。主治医に手を握られ、走って病室に駆け込むと、数名の看護師が見守る中、娘と義妹は泣いていました。

우리 집사람は、既に肉体から離れていました。自分は우리 집사람を感じました。それは、癌から来る疼痛からは解放されており、霊体が肉身から離れる直前まで苦しんでいたような感じではありませんでした。自分は心の中で「엄마, 너무 수고했네. 이제 영계로 가야 되겠네. (おかあさん、余りにも苦労をしたね。これから霊界に行かなければならないんだね。)」と話し、우리 집사람の肉体に向き直りました。

そして主治医が泣きながら死亡診断を始めました。主治医は自分の到着まで死亡診断を待ってくれていたのです。いわゆる心肺停止状態になったのが、妹が自分に電話をしてきたその時だったそうです。正式に死亡確認が告げられ、自分は210日間우리 집사람を支えてくださった医療陣に感謝の礼を捧げました。

我が家での作業は6時過ぎに終わり、すぐさま弟と長男が病院に駆けつけてくれました。このような状況で家を任せてしまったこの二人には本当に申し訳なく思っています。
その夜、教会から牧師や5月に우리 집사람に付き添ってくださった婦人たちが来てくださり、礼拝を済ませました。


そうしてわが家族は、우리 집사람が地上の生活と別れ、霊界の生活へと出発するための2泊3日の非日常を過ごしました。
こんなしがない我が家の式に、230名以上の方が来てくれました。自分には우리 집사람を「失った」という「悲しみ」はまったく感じず、우리 집사람のためにこんなに大勢の方が来てくださり、ただただ一人一人に対して感謝の思いしかありませんでした。自分には、우리 집사람はいなくなってしまったのではなく、霊界の人となって存在しており、ただその式場にはいず、どこか別のところでモニタ越しに我々を見ているような感じがあって、式場に来てくれた人々に対して우리 집사람が喜んだり涙を流したりしている感じがなんとなく伝わってきていたのです。その2泊3日の最後の日の早朝、우리 집사람が自分と結婚する前にソウルで働いていた時に一緒に住み込みで働いており、お互い結婚をしてからもずっと夫婦同士でお付き合いのあった夫婦が訪ねてきたときには、自分もさることながら우리 집사람が嬉しくて涙を流しているのを感じ、その夫婦に感謝を伝えずにはいられませんでした。



そして4か月の月日が流れようとしています。
その間、誠に勝手ながら、このブログにも消息を書かず、喪に服すつもりで過ごしてきました。우리 집사람が切り盛りしなくなった我が家は、4月からの4か月間でトレーニングとリハーサルを繰り返し、8月から本格的にわしと子供たちとで切り盛りをし始め、しばらくわしの睡眠時間は毎日3時間程度でしたが、最近ようやく余裕が出てきたように感じます。

ライフラインや自動車など、かなりの部分が우리 집사람の名義で契約をしていましたので、それらのすべてをわしの名義に切り替えるのにはかなり時間と手間がかかりました。自分の携帯電話契約だけは4月にわしの名義に切り替えており(KTの携帯電話を契約した際に、わしが外国人のため契約できないと当時代理店の店員に言われ、우리 집사람名義で契約していたのを、KTに直接行って契約を変えてもらった)、そのわし名義の携帯電話があるということがこれらの契約切り替えに本当に役立ちました。


この4か月の間に추석(チュソク 秋夕 韓国の旧盆)がありました。我が家も처갓집(チョガッチブ 妻の実家)に行って、祭事の手伝いなどいろいろなことをしました。まぁ今回特別に祭事の手伝いをしたというわけではなく、毎年いつもやっているような感じで過ごしたのですが。ただ、今年からは우리 집사람が手伝えないということだけが違っていたように思います。


そんなこんなで、休日は家事に追われたり買い出しに行ったりすることがほとんどでしたが、少し余裕が出てきたので、春になったら川にも出かけたいと思っています。
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プロフィール

アキミツ

Author:アキミツ
97年から韓国に住んでいます。妻は韓国人、子供たちは二重国籍です。
韓国の田舎で野良仕事からサーバー管理まで仕事をしつつ、ときどき川に行ってはガサガサして魚をとってます。

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